久慈川水系の砂金




 

 久慈川は、茨城県の最高峰八溝山(1,022m)を源流として、福島・茨城両県の山々の間を流れ、、山田川・里川等の支川を合わせて、日立市久慈町の南方で太平洋に注いでいる一級河川です。
 流域は標高の低い山地が連なり、のどかな日本の里山が広がっています。また、日本一アユの生息数の多い川として知られていますので、シーズンにはアユ釣師と砂金掘師のフィールドが重なってしまいます。多勢に無勢ですから、この季節には砂金のルーツでも求めて、支流のさらに支流奥地でも彷徨っていたほうが無難かもしれません。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 概ね、この地域の地質は、上流域の右岸は中生代に海に堆積した泥や砂の堆積岩を配し、左岸には、これよりも新しい新第三紀の火山噴出物の堆積岩を配しています。また、金を多く含んだ石英脈は右岸に集中しています。この地域の含金石英脈は、いわゆる老脈と呼ばれる比較的粒子の大きい金粒を含み、古来から、これらの石英脈が風化し、水流によって堆積した土壌から採金され、後の金山坑道採掘へと繋がったものと思われます。

 この地方の砂金採掘は奈良時代、西へ一山越えた栃木県馬頭町に始まります。真の事実を知る術はありませんが、西暦749年、朝廷へ献上された宮城県涌谷町のそれより一歩後になったようです。





























 常陸の金山の全盛期は、常陸源氏「佐竹氏」の盛衰と連動しています。佐竹氏は清和源氏の一家系、河内源氏の流れを汲む平安時代からの名門武家。金鉱山経営は 第17代 義昭、18代 義重、19代 義宣 (1545年〜1602年)にわたる佐竹氏3代あたりが全盛期だったのではないでしょうか。もっとも関ヶ原の戦いにおいて優柔不断な対応をした罪によって出羽国秋田に転封されてからも鉱山開発の意欲は衰えず、院内銀山・阿仁銅山を日本屈指の鉱山に育て上げました。また、久保田藩の藩主として領国経営に力を尽くし、外様大名 佐竹氏は幕府に潰されることなく幕末まで生き残りました。

 さて、佐竹氏の秋田転封後の常陸の金山は水戸藩が引き継ぐも、これといった成果は得られませんでした。果して金と美人とハタハタは佐竹さんと一緒に秋田へ行った」と人々は言ったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 そして近代、この地域には小さな鉱床は数あるものの、経営が成り立つ大きな鉱床はありませんでした。第二次世界大戦末期、昭和18年の金山整備令によって、常陸の全ての金山は操業を止められました。

 昭和後期になって栃原金山が復活しましたが、平成15年には結局、金価格の低下を理由に閉山をしてしまい、ついに奈良時代より続いた常陸の金山の歴史は閉じられました。

 

 

 

 

 

 

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