◇◆◇ベトナム・カンボジア旅行記◇◆◇
2010年12月8日〜12月13日
写真の上にカーソルを持っていった時に、手の形に変わる場合は拡大写真がご覧いただけます。
海外旅行をした人から、「日本は良い国だ」という声を何度か耳にしたことがある。 私も15年ほど前に韓国に行ったことがあるが、当時はそのようなことは感じなかった。 恐らく日本との生活環境の違いがあまり無かったためかもしれない。 しかし、今回東南アジアに行って、日本の良さを実感した。 それは特にカンボジアで感じたことだった。 経済状態、インフラの整備状況や人々の生活実態などを比較すると、 世界第3位の経済大国である日本と、アジアの最貧国とも言われているカンボジアとの格差の大きさに愕然とする。 いくら温暖だからと言っても、単に雨を凌ぐだけの家、いや、とても家とはいえないバラックでの生活、 そして民家の脇を流れている小川(乾季だからだと思うが)の淵にはごみが無造作に放置されている所も随所に見かけた。 恐らくごみ収集車などは巡回してこないだろうし、日々の生活に追われて、自分達で処理する気にならないのかもしれない。 勿論電気や水道などは無いであろう。 日本での災害時に、電気、ガス、水道などのライフラインを失った時はその有難さを痛感するのだが、 彼らはその便利さを知らないであろうから、また無いことの不便さも知らないであろう。 我々団塊の世代が子供の頃は、電気はともかく、ガスや水道が無かった時期を経験している。 友達と外で遊んでいると、井戸の水を汲んで風呂に入れるよう親から言われて、 しぶしぶ友達と別れたというようなことは、日常茶飯事だった。 今回、両国の現実を知った私は、生活の豊かさ、環境の美しさで 日本人が如何に幸せな生活を営んでいるのかを痛感したのだ。 今回は、そんな東南アジア、ベトナムとカンボジアでの珍道中記である。
海外旅行については、大学時代の友人との間で数年前から東南アジアかヨーロッパ旅行が候補として上げられていたが、 なかなか実現できないでいた。 しかし、遂に2010年9月の終わりには、うまく話が纏まれば、 すぐに旅行会社へ予約に行こうという前提で新宿で飲もうという段階にまで進んだ。 従って、パスポートや予約金なども用意しての飲み会が始まったのである。 私は海外旅行といえば、今まで韓国しか行ったことはなかったが、 今回一緒に行く予定の友人は、韓国には数回、他にトルコなどにも行ったことがあり、 海外旅行に関しては、頼りになる人である。 彼が一番行きたかったのはヨーロッパのようだったが、 飛行機が苦手な私は、搭乗時間が短い東南アジアを希望した。 そして遂にベトナム・カンボジア旅行が決定した。 私は、特にあの強大な軍事力を有しているアメリカ軍を破ったベトナムには、学生時代から少なからぬ興味を抱いていた。 旅行時期については友人の弁では、乾季が始まる11月以降が良さそうだ。 彼はすでに定年退職しているので日程には拘りが無いが、 私はまだ在職中の身なので、仕事の関係上12月を希望した。 我々は幾つかあるコースの中から、12月8日成田発、12月13日成田着のツアーを選んだ。
打ち合わせを兼ねた飲み会が終わると、早速新宿のH旅行会社に予約に向かう。 申込書に記入し、パスポートを提示する。 申込金の2万円はその場で払ったが 残金88,580円は10月29日までに払わなければならない。 予約はこれで一段落したが、カンボジアに行くには 別途入国ビザ(費用25ドル)が必要とのことで、その取得は旅行会社ではできないので 自分で申請してくださいと言われてしまった。 ビザの申請などはやったこともないので、一抹の不安が過ぎった。
数日後に、「旅行会社に行って残金を払ってきた」と、彼からのメールが入る。 私は、また新宿の旅行会社まで行くのは面倒だし、 銀行振り込みだと手数料がかかるので残金はカード払いにしたいと旅行会社にメールして、ネットで送金することにした。 さらに数日して、彼から、カンボジア大使館に行ってビザの申請を済ませてきたとのメールが入った。 ビザに関しては、私はまだ何の調査もしていなかったが、彼はやることが早い。 彼からの情報によれば、大使館での申請は、申請して数日後に再度引き取りにも行かなければならないそうだ。 交通費もさることながら、2度も行かなければならないということに対して 多少不安と不満を感じた。 私はカンボジア大使館のホームページを調べて、 「E-Visa」というものがあるのに気がついた。 これはネット上で申請し送金すればビザが取得できるというものだが、 ホームページは英語なので、ビザについての説明も当然英語で書かれている。 辞書を片手にどうにか送金までこぎ着け、「E-Visa」の画面を印刷するが、 こんなプリントで良いのだろうかと不安だった。 ベトナムのホテルで、彼が大使館から交付されたビザを見せてもらったが、 写真の上の金色のマークが少し浮き彫りになっていてとても立派で、 単に家のプリンターで印刷しただけの私のものとは格段の違いがあり、 カンボジアに無事入国できるまで、不安の種は尽きることがなかった。
12月に入り出発日が近付くに連れて、なんとなく落ち着かなくなる。 好きでもない飛行機に乗らなければならないからかもしれない。 楽しみ半分、不安半分の複雑な心境である。 準備は、旅行の定番である雨具や着替えは勿論だが、海外旅行として特別用意するものでは、パスポートは勿論、 米ドル、証明写真、胃腸薬などの薬、ホテルで洗濯物を干すための洗濯バサミ、 トイレットペーパー等をリュックやウエストポーチに詰める。 外貨の両替は空港などでもできるが、とりあえず6日に都内の銀行で300ドルだけ両替する。 レートは85.69円だった。数週間前は80円近くまでいっていたので、 80円を切るかと思い延ばしていたが、レートが高くなってしまい失敗だった。 他にはパスポートの紛失・盗難などのトラブル対処法、 ベトナムの領事館や警察などの連絡先や簡単なベトナム語の会話集などをネットで調べて印刷し、準備は完了した。
12月7日、 友人との待ち合わせは、16時半にJR成田駅前という約束だった。 ネットで一番楽そうな経路を調べ、池袋から日暮里経由で京成成田駅へ、そこから徒歩でJR成田駅に行くことにした。 私は慣れない経路なので早めに家を出たせいか、京成成田駅に到着したのは15時半で1時間も早く着いてしまった。 上空は重い雲が垂れ込めて、今にも振り出しそうである。 兎に角JR成田駅を確認するために数分歩く。 次のチェックは、今日の宿泊先である成田ビュー・ホテルのバスが来るバス停の位置と時刻表である。 時刻表には16時半の次は17時半と記されている。 ここで、早い夕食を摂ることになるかもしれないので、店を物色しながらぶらぶら歩く。 駅前の通りを左に折れて暫く歩くと、「成田山新勝寺まで800メートル」との掲示板が目に留まった。 夕食の場所の目星も付いたし、約束の時間まで40分近くもあるので、思い切って行くことにする。 20年ほど前に新勝寺に行ったことはあるのだが、車で急いで回ったせいか、 新勝寺の境内以外の記憶は脳裏に全く残っていない。 この門前町は、浅草の浅草寺や松本の善光寺などとは異なり、 寺の門の前に直角に走っている道路に沿って造られたということが、今回歩いて初めて気が付いた。 寺までの道中、川越にあるような望楼を持っている店もあり歴史を感じさせる。 また、うなぎ料理の店が以外に多いのも特徴のようだ。 新勝寺に着くと、平日の夕方のせいか人は疎らで、数人の観光客だけが目に入った。 門を潜り石灯籠の参道を進み、階段を上り大きな提灯のある仁王門を抜けると 両脇に池のある急な階段がある。 上りきると広場になっていて正面には大きな本殿がある。 旅の無事を祈願してから写真を取り始めると、額に一粒の水滴が落ちてきた。 小雨が降り始めたようだ。 小走りに階段を下り駅に向かうが、雨の神様もなんとか踏ん張ってくれているようで、本格的な降りにはなってこない。 新勝寺に向かう往路で目星を付けておいた酒屋で日本酒の小瓶を買った。 ベトナムのホテルに着いた時に、友人と乾杯するためである。 待ち合わせ時刻が近付いてきたので駅の改札口に急ぐと、程なく彼がやってきた。 17時半のバスに乗ることを確認して、近くの食堂に入る。 ビールと食事を頼んで旅行のことを話していると カウンターで飲んでいた中年の男性が話しに加わってきた。 ベトナムに着いてから乾杯するために、私が小瓶の日本酒を買ってきたという話が聞こえたようだ。 その人が、機内に液体類が入った瓶などの持ち込みは出来ないと、得意そうに話す。 当人はかなりの旅行通のような口ぶりである。 また、その酒は近くの酒屋で買ったことを話すと、「あの酒屋の地酒は旨くない」とまで言う。 その人に背中を向けて座っている彼は、うるさいオヤジだな、というように顔をしかめる。 食事も終わったので、そそくさと店を後にする。 暫くしてホテル行きのバスがやってきたが、かなり混んでいる。 そして乗っている人のほとんどは外国人で、中国語や英語、 そしてベトナム語のような東南アジアらしい言葉なども混ざり、外国にいるような錯覚に陥る。 暫く走ると、バスはイーオンというショッピングモールに入っていく。 ホテル行きのバスが何故そのような場所に寄って行くのか咄嗟には理解できなかったが、 大勢の外国人達が買い物をするために降りていくのを見て、 これは外国人旅行者に対する買い物ツアーのサービスであるのが理解できたが、 ホテルと店との間に何らかの癒着を想像してしまうのは、私の了見が狭いからかもしれない。 下りた人数に比べ、乗った人は少なかったのは、時間がまだ早いせいだろうか。 買い物が終わったと思われる数人の外国人を乗せて、 かなり静かになったバスは一路ホテルに向かう。 成田ビュー・ホテルはネットで調べて外観は知っていたが、 部屋に入ってみると、シングル3500円にしては、思っていたよりも高級感がある。 シャワーを浴びてから、私の部屋で簡単に打ち合わせをする。 先程、新勝寺の参道で買った日本酒は機内に持ち込めないと聞いたので、 残念だがその場で栓を開けてしまった。 後で分かった事だが、手荷物としては機内に持ち込めないが、 預かり手荷物で貨物室に入れる場合には問題無いようだ。 また、出国手続きをしてから、免税店などで買った液体(酒やビール)はオーケーとのこと。 つまりこれは、危険物ではないということだから持ち込みが可能ということらしい。 得てして知ったかぶりをする人の話というものは、当てにならないものである。 明朝は6時45分に部屋を出発することで話が纏まり、お開きになった。
12月8日。 真っ暗な部屋の中、目が覚めたので時計を見る。 まだ、2時半だった。 苦手な飛行機に乗ることと、知らない異国の地に行く不安がそうさせたのだろうか。 十分寝ておかないと現地での行動に支障がでるのではないかと 再び布団に潜るが、焦れば焦るほど眠れない。 殆ど眠れない状態の中、窓の外が薄っすらと明るくなってきたので時計を見ると、6時近くだったので起きてしまった。 頭はすっきりしないが、シャワーを浴びると多少気分は良くなった。 予定通りに部屋を出て、ホテルに横付けされた7時5分発のバスでいよいよ成田国際空港に向かう。 小雨が降る寒い朝である。 寒いのが苦手な私は、一刻も早く暖かいベトナムへ飛んで行きたい衝動に駆られる。 バスの乗客は我々を含め7人ほどである。 途中の検問所でバスは停められ警備員が乗り込んできたので、 不慣れな私は何をされるのか分からず多少緊張した。 結局パスポートのチェックが終了するとバスはゲートを出発した。
程なくバスは第2ターミナル・ビルに無事到着した。 海外旅行初心者の私はベテランの彼の後ろに付いていくしかない。 まずは旅行会社のチケットを見せて航空券を貰い手荷物を預ける。 ウエストポーチだけの身軽な格好になったので、気分も軽くなった。 空港の両替所で2万円をドルに替えて(交換レートは¥85.12)、あとは出発を待つのみである。 時間もあるので、上の階で天丼とそばの朝食を摂る。 窓の向うには小雨にけむるプルシアンブルーの航空機が見える。 色と尾翼にある金色の蓮の花のようなマークを見て、なんとなくベトナム航空機ではないかと思ったが、 その予想は当たっていた。 食事が済んで、下のロビーで少し休む。
ロビー正面の大きな電光掲示板にはソウル、マニラ、シンガポール、ロンドンなどの行き先情報が白く光っている。 ホーチミンは上から6番目に掲示されていて定時の9時30分である。 いよいよこれから海外に出発するのだという期待と不安の交差した心境になる。 掲示板の下には、出国を待つ人が20メートルほど列をなしているが、 なかなか減りそうもないので、その後に並ぶことにする。 私は、これからどのような審査が行われるのかよく分からないので多少緊張する。 まずはパスポートの提示を求められ、次は手荷物検査のようだ。 大きなスーツケースを持った人もいるが、 こんな大きな物を機内に持ち込んでも良いものか不思議だ。 私のリュックは貨物として預けてあるので、 手荷物はウエストポーチとカメラくらいだが、 時計や携帯電話などもプラスティックのケースに入れてX線検査をした後、緊張しながら金属探知機を通る。 ブー、ブー、といやな音が鳴った。 検査官が手動探知機で再チェックをすると、ズボンのポケット付近から警告音が鳴り出した。 検査官がポケットの中身を出せと言う。 慌てて、手を突っ込むと鍵が出てきたのだ。 X線検査の際に、うっかりポケットの中までは気が回らなかった。 次の出国審査ではパスポートと搭乗券を提示して、 手続きは無事完了した。 その先にあるゴージャスな免税店を横目で見ながら、搭乗口へ向かう。 すでに30人近くが並んでいた。多くが団塊の世代で女性同士のグループも目に付く。
間もなく搭乗が始まった。 ボーディング・ブリッジを通って機内に入る。 機内はすでに快適な温度になっていて、ここだけは一足早い春である。 席は彼が窓際で私はその隣で、窓から外が見えるので幸運だった。 搭乗券には彼が12Kで私が12Hと印字されていたので もしかしたら、席が離れているのではないかと心配していた。 この不可思議を解消すべく、帰国してからネットで調べてみると、 7列シートはACDEGHKとなっている。(調べたのはJAL) つまり、B、F、I,Jが欠落しているのである。 もしかしたら、抜けているのは既存の航空会社の頭文字に該当するからかもしれない。 つまり、「B」はブリティッシュ、「F」はフランス、「I」はインドの航空会社、 「J」はJALということになる。 一方使用されているアルファベットは問題ないのかと考えてみる。 つまり、「A」はアメリカ、「C」はカナダなどである。 ここまで来ると、一定の基準はないように思われて、壁に突き当たってしまう。 しかも、エコノミークラスの10列シートなら、「I]を除いては 順に並んでいる。 Iが数字の1(壱)に間違えやすいのかもしれないということは、 かなり確信を持って言えると思うが、他の文字はそれには該当しない。 様々な検索用語を入力して調べているうちに、 次のような情報が出てきた。 窓際の3列シートのA,B,Cは「A」が窓際、「B」が中央、「C」が通路側で 2列席の場合は、中央がないので、「A」と「C」になるということのようだった。 10列シートはABCDEFGHJKで1(壱)と間違えやすいI(アイ)が外されているのは理解できるが 7列シートがACDEGHKで、「F」と「J」が抜けているのはいまだに分からない。 この真相を突き止めるには関係者に聞けばすぐに解決するのだろうが、 自分だけで突き止めるのは、そう簡単そうではない。 そんな座席表示の不思議を考えながら座っている私に、恐怖の瞬間が近付いてきた。 エンジン音が一段と高くなり、飛行機はゆっくりと動きだしたのだ。
出発のアナウンスは定刻の9時半を少し回ったところだ。 手の平にはうっすらと汗が染み出しているが、抑えようがない。 誘導路をゆっくり進み、滑走路に入るとエンジンを全開にして機首をもたげる。 車輪の振動が体まで伝わり、エンジンの騒音が耳に響く。 恐怖心は頂点に達する。 車輪が滑走路から離れると、騒音は急に小さくなる。 窓から見える千葉の田園風景が刻々と小さくなっていく。 やがて、雲の上に出る頃になると、落ち着いてきたせいか手の汗も引っ込んだ。
座席の背面にはA5サイズほどのモニターが設置されていて、運行状況や映画を見たりゲームができそうなのだが、 なかなか操作の仕方が分からない。 友人も分からないようなので、スチュワーデス(現代はキャビンアテンダントいうのか? 私は今風の表現に慣れていないので失礼かもしれないがこの言葉を使わせていただきます)に聞こうかと思ったが、殆どがベトナム人のようなのでなかなか聞く勇気が湧いてこない。 何とか使いこなせるようになったのは、すでに台北上空当たりになってからであった。 映画や音楽なども多数用意されているのは驚きであった。 昔韓国へ行った時には、モニターは前方中央の柱の上部に一台だけだった。 現在は各席に付いていて自分で操作できるとは隔世の感がある。 モニターには現在の飛行機の位置や高度などが定期的に表示される。 高度は韓国へ行った時には1万メートルというあまりの高さに驚いた記憶があるが、今回もほぼ同じ高度なので平静を保てた。 他に外気温がマイナス30度、スピードが500km/h、飛行距離などのデータも見られる。
飛行機が安定飛行に入って暫くするとスチュワーデスが飲み物を運んできた。 私は日本語が通じるかのテストも兼ねて「赤ワイン」と言ってみた。 カートに積んであるのは、ミネラルウォーターやジュースやコーヒーだけで、 ワインは後から持ってきてくれた。 ちょっと悪いことをしてしまったような気まずい思いがしたが、 持ってきたのは「白ワイン」だった。 スチュワーデスは見た目では、日本人は一人だけだったようだが、 私が注文したのは間違いなくベトナム人だったので、よく聞き取れなかったのかもしれない。 しかし、日本人なら聞き返してくれると思うのだが、外国人はその点、いい加減のようだ。 11時近くになると、食事が運ばれてきた。 機内食は全く期待していなかったが、予想外の量と質である。 具体的には、ご飯、パン、ごぼうの肉巻き、人参、ブロッコリー、筍の煮物、蒲鉾、 こんにゃく、昆布の酢の物、胡瓜と大根の漬物、人形焼である。 食事中だけは飛行機に乗っていることすら忘れてしまうほどだった。 また、飲み物が運ばれてきたので、今度は「レッド・ワイン プリーズ」と英語で注文した。 今度は間違いなく「赤ワイン」が届いた。 腹が膨らんできた後にビデオを見ていたら 昨晩の睡眠不足のせいか、瞼が重くなり少し眠ってしまったようだ。
飛行機が高度を下げてくると、 眼下には、ベトナムの緑の中に工場や会社と思われる比較的大きな建物が目に付くが、 市街地が近付くにつれ、小さな民家も多くなってきた。 ホーチミン国際空港への到着予定時刻が近付くと次第に緊張感が増してきた。 飛行機が着陸態勢に入ると、手にはまた汗が染み出してきた。 無事着陸すると、瞬く間に汗は引いていく。 日本との時差は2時間なので、現地時刻だと14時15分ということになる。 約6時間近く飛行機の中で快適に過ごしてきたが 窓から見える景色は、南国のうだるような暑さを映し出している。 飛行機から出てタラップを降りると、日本の猛暑の中に戻ったような錯覚に陥るが、 湿度は幾分少ないようにも感じられる。 そして、すぐ前に停まっている大きなバスに乗り込む。 日本のバスより縦も少し長いが、横幅は50センチ近くも長く 座席もないので日本の路線バスの倍近くは詰め込めそうである。 数分で空港ビルに到着して、いよいよ入国手続きになる。
役人、特に入出国のような審査をする役人は、なぜか苦虫を噛みつぶしたような顔をした人が殆どなので多少緊張する。 勿論、土産物店の店員のように愛想の良い人がいたら、逆の意味で心配にはなるが。 審査が無事済んで、荷物の引き取りに1階に下りて行く。 そこは冷房の効果が及ばないので蒸し暑い。 大きなスーツケースやダンボール箱、リュックなどが 回転寿司のように次から次へ流れてくる。 私のリュックも程なくやってきたが、 友人の荷物はなかなか来ない。 トランジット(乗り換え)の場合の荷物の紛失は耳にしたことがあるが 今回は直行便なので、そのよなことは考えにくい。 向かい側に目をやると、幾つかの荷物が床に置かれている。 念のため近付くと、なんと、そこに置かれていた。 安堵の胸を撫で下ろして税関チェックを済ませて外に出ると、 すぐ前には両替屋が数軒並んでいて笑顔を振りまきながら声を掛けてきた。 ドルが使えない場合も考慮して、50ドルをベトナム・ドンに替える。
建物の外に出ると、再び南国の熱風に包まれる。 H旅行会社の旗を持ったガイドはすぐに見つかった。 少し先まで歩いてから、迎えの車を待つ。 ツアーガイドはウットさんという30歳代の方で、 「名前はタイガー・ウッズに似ていますが、私はあのウッズのような浮気な人間ではありません」とウィットに富んだ話をしていた。 日本にも数年留学していたということで、日本語もかなり流暢に話すので安心した。 間もなくワンボックスカーがやってきたので乗り込む。 客は我々だけの寂しい出発である。
40分程でホテルに到着したが、その道中での光景は正にカルチャーショックで、 開いた口が塞がらないとはこのことかもしれない。 それはうんかのごとく走り回るバイクの群なのである。 テレビや本でベトナムのバイクの凄まじさは知ってはいたが 現実は予想を遥かに超えていた。 バイクは車にぶつかりそうになると、うまくハンドルを切ってすり抜けて行く。 信号がない交差点もまだ多く、右折する場合は、対向してくるバイクの群れが 引きもきらないので大変だが、遠慮していては いつまでも待っていても曲がれないので、車はかなり強引に割り込む。 そこでクラクションが鳴らされるが、バイクも少しスピードを緩めて ハンドルを右にきって、うまく避けて通り抜ける。 混雑していてスピードが出せないので、大きな事故は起きないのかもしれないが、 ガイドの話では、全国で1日に30人近い事故死があると言う(記憶違いがあるかもしれないが)。 信号のある所はとても少ないが、そこでもかなり無謀な運転が行われている。 信号が赤になってもすぐには停まらないバイクが多い。 当然今まで赤信号で待っていたドライバーはクラクションを鳴らしてゆっくり走り出す。 それでも、そのスピードを測りながら、擦れ擦れになりながらも直前を擦り抜けて行く。 順法精神の強い国民といわれている日本人から見ると その違法性は気になるところだが、アクロバットの世界を見ているような楽しさも否定できない。 ベトナムのバイクの座席は日本のと違い、多少長く作られている。 いや、二人乗りを想定して作っていると言った方が正しいのかもしれない。 事実一人で乗っているのは少なく、二人乗りが非常に多い。 中には三人乗り、最高は四人乗りも何度か見かけた。 バイクの数の多さは勿論のこと、一台に乗っている人数が多いせいか、 そのエネルギーの凄まじさには圧倒される。 ガイドさんに聞くと、免許は必要ではないが ヘルメットをしていないと罰金とのことだが、中にはプラスチック製の 粗悪なヘルメットをしている人もいるそうだ。
驚きが大きかったせいか、あっという間にホテルに到着したような気がした。 ベトナムで2泊するこのウインザー・プラザ・ホテルは25階建てで、ランクは5段階の上から2番目である。 1階のロビーは質素だが4階のフロントはとてもゴージャスでガラスの装飾品がきらきら光っている。 今まで、日本のホテルで、これほどの華やかなフロントは見たことがない。 やはり、国民性の違いだろうか。 チェックインを済ませてから、15階のツインの部屋に入る。 広さは16畳にバス・トイレ付きで思っていたより綺麗だ。 早速窓から外を見ると、遠方には洒落た高層ビルも見えるが眼下には民家がひしめき合っている。 傾きかけた錆びたトタン屋根の家があると思えば、その横で小さいビルの新築工事をしていたり、 まだ貧富の差が激しいことが窺える。 ただ、ビルの工事現場の壁の薄さが気になる。 断熱材などは使われている様子は全くなく、ただ風雨が凌げればよいのだろうから、 やはりここは南国なのだと羨ましくなる。
少し休んでから、ビールを買いに外に出る。 ガイドから、ホテルのすぐ前にコンビニがあることは聞かされていたのでそこを目指す。 幅8メートルほどの広くない道路だが、例のバイクが行き交っている。 慣れていない我々は、なかなか渡ることができない。 相棒は、渡るのを諦めようとしている節も感じられたが、 私はバイクが少なくなったのを見計らって、ゆっくり歩き出した。 相棒は次の間隙を縫って渡ってきた。 コンビニは間口は3メートル、奥行きは8メートルほどの小さな店だ。 殆どがスナック菓子や酒のつまみなどの軽食にジュースやビールなどの飲み物だ。 私は日本から、ビーナッツやかりんとうを持ってきたのでビールだけを漁る。 日本のアサヒ・スーパードライやハイネケンもあったが、 やはりここは地元のビールである「サイゴン・ビール」、「333」と、タイガースファンとしては嬉しい「タイガービール」を買う。 店番をしていた青年にベトナムドンで支払ったら、おつりの他に飴を一つくれた。 一瞬サービスでくれたのかと喜んだが、ネットで細かいおつりの変わりに「飴」をくれるという情報を思い出し、 寂しく納得した。 部屋に戻って、外国での最初のビールが体に染み込んでいくと、やっと無事に到着した実感が湧いてきたが、 成田のホテルで飲んでしまった日本酒のことを考えると、ちょっと残念な気がする。 夕食にはまだ早いので、ベッドで少し休息する。
![]() |
これは動画です。 動画ソフト(ウインドウ・メディア・プレイヤーなど)が インストールされていないと再生できません。 |
---|
18時半頃、夕食を摂りに外にでる。 東南アジアでは、その時間はまだ明るすぎて夕方という雰囲気ではないが とにかく適当な店を探しにホテルを出て右に進む。 すぐに広い道路との交差点に出る。 ホテルの前の狭い道路と違って、幅十数メートルはあろうか。 右手の方はY路地になっているのでホテルの前の道路より少し広い程度だが バイクの数が桁違いに多いのである。 地元の人はゆっくり、堂々と渡っているが、我々はなかなか決心が付かない。 ホテルの前くらいならなんとか渡れるが、この道路を渡る勇気がなかなか湧いてこない。 相棒は渡るのを諦めたので、私も断念した。 海外旅行初日に交通事故では、様にならない。 このような状況では、バイクの激しい通りは渡れないということなので、 信号機のある交差点に出会うことを期待するばかりである。 きょろきょろしているとタクシーの運転手が乗れといわんばかりに指を指しているが 流しのタクシーは高い料金を吹っ掛けられる恐れがあるので、無視する。 最初はホテルの横の歩道を進もうとしたが、バイクが邪魔をしていて、とても歩ける状態ではない。 仕方なくホテルのすぐ脇の狭い通路を進む。 そこは宝石や衣料品などを扱う店が多く入っている。 飲食店も1軒あったが軽食と飲み物だけしか扱っていないようなので諦める。 ホテルの一角から裏路地に入ると、道端でフルーツや装飾品などが売られている。 活気があると言えばあるのだが、道路端でのフルーツは、衛生面での心配があるので、どうしても食指が動かない。 ホテルを半周した後左折し、街路樹が植えられた少し広い歩道を進むと比較的大きな交差点に出るが 信号がないので左折するしかない。 この道は広い割にはバイクの数は少ないのでゆったりできる。 しかし、歩道には露天商の他に 仲間同士で酒を飲んでいる連中もいる上バイクも置いてあり 道路には、ごみが目立つので落ち着いて歩けない。 次の交差点は信号があったのだが、 その時はすでに二人とも、店を探す気力は失っていて ホテルのレストランで食べようということになったのでまた左折してホテルに戻る。 せっかく外で食べようと期待して出て行ったが、 やはりガイドがいないと、良い店は見つからないものだ。
レストランはホテルの最上階の25階にあり、10卓ほどのテーブルが用意されているが、客は一人もいなかった。 最上階からは、宝石を散りばめたようにきらきら輝いている夜景が望める。 我々は景色が良く見える窓際中央のテーブルに腰をかけた。 若いボーイがメニューを持ってやって来た。 まずビールは「サイゴン・ビール」で決まりだが、 メニューは英語とベトナム語の併記で、 ベトナム語は皆目見当が付かないので、英語が頼りだ。 私は、「Pork」の文字を見つけたのでそれを注文した。 出てきたのは、ポークと野菜を煮込んだものだったがなかなか美味しかった。 その内、2組の客が入ってきたが、多くの宿泊客は 外のレストランで食べているのだろうかと思うと その勇気には感服せざるを得ない。 食事代は50,000ドン。日本円にすると、2千円少々で妥当なところだろうが 「50,000ドン」と聞くと、その満足度は途轍もなく大きく感じられる。 満腹にはならなかったが、精神的には十分満足だった。 22時半に就寝。 その夜熟睡できたのは言うまでもない。
12月9日。 今日私にとっては、この旅でもっとも関心を持っていたベトナム解放民族戦線の地下トンネルを体験できる日である。 6時頃目が覚めて、カーテンを開けると、眼下にはすでにバイクがうごめき始めている。 今日の集合時間は早いので、身支度を急いで食堂へ向かう。 キーを見せてからルームナンバーを言って中に入る。 パンだけでも色々な種類があって目移りしてしまうくらいだ。 勿論他にも果物、揚げ物、麺類、サラダ、飲み物など 嘗て見たことも無いほどのバラエティに富んでいる。 ただ残念だったのは、果物で好きなメロンやマンゴーが無かったことと、 好きなスイカはあったのだが、味が淡白で甘くなかったことだ。 7時50分にホテルのロビーでガイドと落ち合う。 昨日のガイドであるウットさんとは違う人だが年代は同じくらいだ。 この「ミトー・メコン川クルーズ&クチ地下トンネル」は90ドルのオプションナルツアーである。 昨日ホテルに入ってから、ロビーでコースを決めて、代金もその時に払っている。 玄関を出ると程なくランドクルーザーに似た車が滑り込んできた。 ドライバーは別の人で、役割分担ははっきりしているようだ。
混んでいる市内を抜け国道1号に入ると、片側2車線にバイク専用のレーンもある広い道を進む。 市内のようにバイクに囲まれることもなく、安心して乗っていられる。 この道は日本のODA援助で造られたとガイドが話してくれた。 日本も、「なかなかやるな」と、少し鼻が高い。 暫く走ると立体交差の工事が行われている関係かもしれないが、 車1台しか通れないような狭い所や舗装もされてない箇所もあって砂埃が凄まじい。 沿道の店の人達はマスクをして目を細めている。 日本なら仮舗装くらいはするのではないだろうか。
9時20分にミトーにあるメコン川クルーズの船着場に到着した。 ミトーはホーチミン市から南西に約70kmの所にあり、メコン川クルーズのメッカとなっている。 この川は、全長約400km、チベット高原を源流に東南アジアを結び、南シナ海へと流れている。 河口は9つの支流に別れ、「九龍(クーロン)」と呼ばれている。 河口の流域には関東平野の3倍ともいわれる巨大な湿地帯が広がり、 世界有数の穀倉地帯となっている。 長さ6mほどの屋根つきボートで、対岸のタイソン島に向かう。 早速、ガイドさんがココナッツを剥いてくれた。 上野のアメ横で、紙コップに入ったココナッツジュースを飲んだ記憶はあるが、 穴の開いたココナッツを丸ごと一個持って、ダイナミックに飲むのは初めてだ。 川の色は茶褐色でお世辞にも綺麗とは言えないが、 ジュースを飲みながら、頬を撫でていく南国の風に身を任せていると なんとも言えない幸福感で満たされる。 10分ほどで島に到着。
船から上がると、すぐに一軒の民家があり、その横では土産物が売られている。 この後にも土産物屋が沢山あるとは知らなかったので 200円ほどのココナッツの木で作ったという箸が10組と栞を、つい買ってしまった。 ガイドに先導されて進んでいく道中の民家の庭には、 ココナッツやマンゴー、ザボンなどの果物が豊かに実っている。 細い路地を進んで行くと、友人達と酒でも飲んでいるのだろうか、 路地に面した民家から歌声が聞こえてきた。 正に、ここは温暖で果物も豊富な桃源郷の世界を彷彿とさせる。 この島に、1ヶ月ほど滞在し、フルートを吹いたり、パソコンをいじったり、本を読んだり 腹が減ったら、木に登って果物を食べたり出来たら、どんなに素敵なことだろう。 ガイドは次に、蜂蜜園に立ち寄った。 「これを持ってください。記念写真を撮りましょう」と言って、 蜂箱から蜂が沢山留まっているネットを持ってきた。 蜂は日本のミツバチの半分ほどの大きさしかないので、全く怖くはない。 その後、お茶でもどうぞ、とテーブルに案内された。 脇にはミトー名物のエレファンとイヤーフィッシュ(象耳魚)と呼ばれている体長30cm近くある大きな魚が一匹、 水槽の中でのんびり泳いでいる。 少しグロテスクな顔立ちのこの魚を、今日の昼食で食べることになろうとは思っていなかった。 ガイドと店の若い女性が椅子を勧める。 テーブルには蜂蜜や生姜湯などの瓶が置かれている。 すかさず店の娘さんがお茶を入れてくれながら 案の定、土産物を勧めてきた。 これは3000円、これは1500円と始まった。 まとめて買えばこれもサービスする、と商売熱心である。 私はまだこれから行く所も沢山あるし、荷物になるので買わない積りだったが、 敵もなかなか引き下がらない。 相棒も根負けして幾つか買ったので、私も仕方なく1500円の蜂蜜を買うことにした。 ガイドの案内がなければ、散財しなくても済んだ訳だが 多少のバックマージンでもあるのだろうか。 次は少し歩いて右側にあるココナッツキャンディーの工房見学である。 工房といっても、雨露を防ぐだけの屋根と、5、6坪のでこぼこの地面の上で ココナッツを割る簡単な機械とそれを鍋で煮詰めるだけの設備で飴を作っていて、 すぐ脇では箱に詰めたキャンディーが数種類売られている。 盛んに試食を勧めてきて相棒がまた買うので、私も釣られてしまった。 買った後で店を出ながら、こんなことをしていたら金も心配だが 帰りの荷物の量も心配なので、セーブしようと話が纏まった。 そんな矢先に、幅3メートル足らずの道の両脇に衣料関係を並べている店が現れた。 日本語で「ご覧下さい」とか「安いですよ」などと 声をかけられながら、幾つか店を素通りしていくと、 カラフルなハンモックが目に留まった。 先導のガイドは素通りして行くが、私は立ち止まってそれを見つめる。 珍しさも手伝って、ここでも相棒が先に10ドルの地味なものを買ったが 私はハンモックに対しては、それなりの憧れを持っていたので、 少し派手な色合いの30ドルのものを買った。 先程の「セーブしよう」という話は、瞬く間に雲散霧消してしまった。 少し歩くとガイドが「フルーツ園があるので休憩しましょう」と誘ってきた。 いくつかあるテーブルの一角に案内されると、テーブルの上には すでに、パパイヤやマンゴーなど南国フルーツが一口サイズに切られて並んでいる。 別のテーブルでは中国人らしき観光客の集団に、 美しいアオザイを来た4人のベトナムの美人が 一弦という楽器と太鼓の演奏をバックに歌を歌っている。 今度はどんな下心があるのかと思っていたら、 ガイドは、自分は用事で20分ほど離れるが 歌を歌い終わったら、3ドル程渡してくれないかと耳元で囁く。 歌は日本語で「幸せなら手をたたこう」などを3曲を歌い終えると、 小さな器を手に集金に回ってきた。 なかなか商魂逞しい人達のようだ。 次は熱帯の林を抜け、川に下りる。 ノンという菅傘をかぶって船に乗り込む。 船頭は50歳近い婦人だが、日本の遊園地にあるような小さな木製の船の櫓を慣れた手付きでさばき、 人間の背丈の2、3倍はあろうかと思われるニッパ椰子が両岸に生い茂る川幅4メートルほどの川を進む。 岸は関東ローム層のような赤茶けた土で覆われ、 かなり上まで湿っている感じがするのは、 干満の差が激しいからかもしれない。 5分ほどで大河メコン川に合流すると急に視界が開け、上空の青い空が眩しい。 先程メコン川を渡ってきた船が係留されている近くまで来ると、 帰りの船頭は若い男性と交代し、二人で戻って行く。 恐らく元の場所まで帰るのは逆流になり、船を漕ぐのが大変なので若者に交代したのかもしれない。 もしかしたら長男かもしれないが、心温まる光景であった。 このように豊かな自然と穏やかな人々が織り成す素敵な楽園が他にあるだろうか、 このまま住んでしまいたい衝動に駆られる島だった。 後ろ髪を引かれる思いで船着場に戻る。
昼食の場所まで20分ほど車に乗ったが 道中、白いアオザイを着た大勢の女子高生らしき若者達が自転車に乗っているのを見かけた。 風になびくアオザイの姿がなんとも優雅で涼しそうで素敵だ。 朝の始業時間が早いベトナムでは、もう学校が終わったのか、 それとも昼休み時間が長いので一時自宅に帰るのであろうか、 ガイドさんに聞きそびれたので真相は不明だ。 間もなく、昼食には少し早いが11時半にレストランに到着した。
建物の入り口には、日本の皇太子が来店した時の大きな写真が天井からぶら下げられている。 日本人客が多いことを配慮してのことだろうか。 少し奥に進むと、ドームのような屋根が付いた吹き抜けの構造で、緑の風が流れ込んでくる客席になっている。 時間的にまだ早いせいか客の数は少ないが、爽やかな風の中での食事は気持ち良さそうだ。 脇では大人の顔ほどもある大きな風船餅の製造実演が行われていた。 お餅がこんな形になるとは、大変面白いものだ。 我々はそこを左に進み、平屋の建物に入る。 ドアを開けてすぐ右には4人掛けの丸テーブルが3卓、中央と奥には団体用と思われる 四角の長テーブルが繋げて設置されている。 我々は丸テーブルに案内された。 ガイドは、飲み物は別料金だが、料理はツアー代金に含まれている旨説明して 12時15分にまた迎えにくると言い残して去って行った。 早速ビールで乾杯。 料理は8種類のメニューがベトナム語、日本語、英語で書かれている。 その中には先程見た風船餅とタイソン島の水槽にいた エレファンとイヤーフィッシュ(象耳魚)もあった。 餅の好きな私は風船餅がすっかり気に入った。 少しグロテスクな象耳魚は、あまり食指が動かないが、 2度と食べられないかもしれないので挑戦してみる。 店の人のアドバイスを受けながら何とか箸を入れてみる。 私が苦手の鯉に似た白身だが、香草と一緒にライスペーパーで巻いて スパイシーなたれでいただくとなかなかの美味だ。 他にニンニク炒め、チャーハン、焼きえびなど思っていたより豪華だ。 中国の影響を受けた嘗て漢字圏であったこの国は、料理にもその影響が色濃く出ているようだ。 楽しい時間は瞬く間に過ぎるもので、もうガイドさんの姿が見えた。 定刻に店を出て、いよいよこれから私にとって、今回の旅の最重要地点である「クチの地下トンネル探検」に向かう。
片側2車線の空いている高速道路を快適に走り、一般道に降りて、 フランスの統治時代に植林されたゴムの林を抜けると 目的の「クチのトンネル」に到着である。 ここは、ホーチミン市から北西約70kmにあるクチという地域にある。 全長約250kmに及ぶ巨大な地下要塞クチ・トンネルで、 ベトナム戦争中は、ゲリラ戦に備えた南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の最前線基地だった。
ガイドに先導されて地下道の改札を通り抜けると、目の前にはジャングルが広がっている。 数人の軍服姿の兵士が警備しているが、昔、巨大なアメリカ帝国主義と戦ったという誇りを胸に秘めているだろうが、 観光客の我々には、それなりの優しい眼差しを向けているように感じた。 鉄砲の音もどこからか聞こえてくる。何かの訓練でもしているのだろうか。 ガイドは今通ってきた地下道の脇に建設されている、屋根が茅葺きの粗末なホールに案内した。 短い階段を降りると100人ほど座れる粗削りのテーブルと長いすが設置されていて、 中央にはホーチミンの肖像と国旗と、その下に映像を映す小さなスクリーンが設置されている。 地下道の模型も作られていて、パンフレットによると、20年もの歳月をかけて手作業だけで作られ、 一部は地下3階まであり、寝室や台所、病院、学校まで設けられていたというから、 日本の戦時中の防空壕とは雲泥の差があり、驚くばかりである。 私は小学校の頃、蟻を飼って、ガラス越しに 営巣行動を観察したことがあったが 正に蟻の巣の人間バージョンのようだ。 正面左下には実際に穴掘りに使ったという、 長さ30cmほどの竹かごと30cmには及ばない小さな手斧が無造作に置いてある。 こんな原始的な道具で、よくも250kmもの地下を掘り進めてこられたものだ。 日本でも、東北や北陸など、雪国の人々は忍耐力が強いとよく言われるが ここは、のんびり暮らしていても豊かな実りが得られる地域である。 そのような根性、忍耐力がどこで培われたのであろうか。 民族の誇りと尊厳さだけで、この偉大な業績を語るのは無謀に感じるが、 凡人には計り知れない、色々な意味での大きな愛を持った人民なのであろう。
ホールを出て、ジャングルを数分歩いていくと ガイドは突然地面の枯葉を手で払い始めた。 土の中から出てきたのは、ガイドブックでも有名なほら穴の蓋だった。 やおら蓋を外しながら穴の中を説明し始めた。 横30cm、縦20cmほどの入り口から下を覗くと、入り口が狭い上に、 ジャングルが光を遮っているので、底は全く見えない。 中に入るよう促された我々は、こんな狭いところに入れるのか疑問に感じながらも どうにか入って、ガイドブックのスター気取りで、 定番通り蓋を頭に載せながら記念撮影だ。 こんなに狭かったら、体の大きなアメリカ兵は勿論のこと、 小柄な日本人でも、メタボの人は入ることすら困難であろう。 勿論それも計算ずくで作られたのであろう。
そこから少し歩くと、縦1m、横2m、深さ1mほどの穴があり、 中には先の尖った1mほどの鉄の針が十数本、空に向かって立っている。 アメリカ兵に対する落とし穴だ。 勿論この穴で命を落とすのは限られた人数だろうが それを目の当たりにした米兵は、それから先の行動に於いて 精神的に計り知れないダメージを受けてしまったであろうし、 進軍のスピードにも多大な影響を与えられてしまったことは想像に難くない。。 落とし穴の針の形態は他にも数種類あり、様々な仕掛けの例が展示されている。 回転式やもがけばもがくほど深みにはまり込む 蟻地獄のような仕組みには、よくここまで合理的にできたものだと、ほとほと感心させられる。 アメリカ帝国主義に対する怨念の強さの裏返しか。
途中には、アメリカ軍の戦車の展示や、アメリカ軍が落とした爆弾や、 南ベトナム解放民族戦線が作った爆弾や罠などの資料が展示されている8畳ほどの小さな資料小屋を見てから少し歩くと、鉄砲の音が一段と大きくなってきた。 やがて建物が見えてくると、音はそのすぐ右の方から発せられているようだ。 ガイドは、ここでは実弾射撃ができるのだ、とちょっと耳を疑いたくなるようなことを言い出した。 実弾射撃など、日本に居たら到底体験することはできないことで、 この機会を逃したら、恐らくもう二度とチャンスはないであろう。 多少の恐怖感はあったが、実体験してみようということに決した。 建物の一角にはライフル銃が並べられていて、料金は10発で5ドルだ。 割り勘で5発づつ打つことにして、幅1mほどのコンクリートの階段を下っていく。 そこはサッカー場くらいの広さで窪地になっていて、 階段側の幅1mほどが射撃をする場所で柵の向いはすり鉢状に高くなっていて、 下の方に6、7個の丸いターゲットが立っている。 係りの人がヘッドホーンを付けるよう差し出してくれた。 しかし、それを装着する前にアメリカ人らしき先客の何人かが打ち始めた。 その銃撃の凄まじい音が「キーン」と耳に響いた。 一瞬鼓膜でも破れたのではないかと心配になるほどだった。 相棒はそれ以降、元々具合の悪かった片方の耳は、日本に帰ってからも暫く耳鳴りが直らなかったという。 このようなトラブルを防ぐためにも、ヘッドホーンは料金を払った際に、 上の建物で貸し出すべきではないだろうか。 ヘッドホーンを付けても、係りの人の説明は問題なく聞こえたので、全く問題は無いはずだ。 さて、いよいよ実射だ。 銃はしっかりと肩に付けないと、撃ったときの反動で肩を痛めるとの注意があった。 どのくらいの反動があるのか、多少不安になったが、それほどの反動ではなかった。 しかし、音はヘッドホーンをしていても、かなりの大きさだ。 弾は早すぎて、どれもどこに飛んでいったのか皆目見当がつかなかった。 温泉街での射的の様な訳にはいかなかった。 私は現場を離れながら、兵士は耳栓などをして戦ったのか、 愚問を承知でガイドに聞いてみたが、案の定私の取り越し苦労だった。
少し歩いて、ライスペーパーの作り方を実演している小屋に案内された。 米を砕いて水で乳液状にしたものを丸い鉄板に薄くしき、 乾燥させたもので、昼食にも春巻きに使われていたものだ。 庭の隅には、竹で編んだ干し物の上にきれいに並べて天日干しされていた。 射撃場の近くに、このような施設がある必然性には いささかの疑問も禁じえないが、 積極的に販売している雰囲気はないので、 施設で働いている人達の食事になるのかもしれない。
そして、私が今回の旅で一番楽しみにしていた地下トンネルの登場である。 ここでは観光用に長さ100mの地下トンネルが用意されていて 25mごとに外に出られる出口があると説明があった。 勿論入り口は最初のほら穴のように小さくはない。 観光用に大きくしたのだろうと思うが、 施設の係員が先導して、 ゆっくりと階段を1mほど降りて、いよいよトンネルを進むことになる。 病院や学校まで地下にあったと最初に説明があったので、さぞかし立派なトンネルなのだろう、 少なくとも中腰で進むことができるようなトンネルだろうと想像していたが、予想は全く違っていた。 確かに大きな穴を掘るには、それなりの労力と時間が必要なのは理解できるが、 実際は、しゃがんで一歩一歩進むしかないような小さな穴で、少しでも頭を上げようものなら 硬い岩盤に脳天をぶつけてしまうほどの、狭い空間だった。 子供の頃にトンネルを掘って遊んだこともあったが、子供の遊びに毛の生えた程度の大きさだ。 確かに、優秀な掘削機械もない手掘りでは、これが一番合理的な空間かもしれない。 ガイドの説明では、それでも観光用に多少広くなっているらしい。 当然、中は明りもなく真っ暗なので、携帯の明りを一時利用したりしたが、 南国の蒸し暑さも手伝って、不快感は増しパニック寸前の状況になる。 私は最後の100m地点までトンネルを通り抜けようと思っていたが、 先に入った相棒が、「もう我慢できねー」と 悲鳴をあげ、25m地点で外に出ると言い出した。 せめて50m地点まで行こうと促したが、にべも無く断られた。 一瞬、自分だけは次の出口まで頑張ろうと思ったが、 相棒の言葉が「渡りに船」で、降参することにした。 残念だが、ここで地上に出るしかなさそうだ。 後ろ髪を引かれる思いでその場を立ち去る。
少し歩いて、米軍のB52が爆弾を落としてできた大きな穴の横を通り 東屋でお茶をいただきながら少し休憩して 地下トンネルの体験ツアーはすべて終了した。 正に、偉大なるベトナム人の不屈の精神を象徴する森だった。 15時半、私にとって今回の旅のメインエベントが幕を下ろした。 最終的には米軍に勝利したベトナムであるが 数知れない兵士や民間人がこのジャングルで 命を落としたり後遺症に苦しんだりしたことを思うと、車に乗ってホテルに戻る間、 やり切れない、憂鬱な気分が燻っていた。
ホテルで少し休憩して18時50分に、サイゴン川クルーズに出発するためホテルのロビーに集合した。 ガイドは、H旅行会社の従業員の多くに仕事を割り振られるようするためだと思うが、 午前中の人とは違う人がやってきた。 黄昏時の市街地を走り抜け、 30分足らずでサイゴン川の船着場に到着した。 入り口にはすでに数十人の先客が乗船を待っている。 長さ50m以上はあると思われる豪華な船の中では、すでに音楽が賑やかに奏でられ、 提灯の灯りが華やかに船を彩っている。 やがて乗船が始まり、我々は船のサイドにあるテーブルに案内される。 すぐ脇の船室内では、二胡や太鼓などの民族音楽と踊りで賑やかだ。 ここでも中国との関係の深さが見て取れる。 間もなく女性係員が注文を聞きにきた。 ガイドからは、ここでの食事代はオプショナルツアー代金に含まれているが 飲み物は当然別料金となっているとの説明があった。 サイゴン川に来たら、ビールは勿論サイゴン・ビールだ。 出航して間もなくビールが運ばれてきたので、早速乾杯。 川風が心地よく頬を撫でていく。 暗くて川の様子はよく見えないが、ごみは殆ど浮いていないようだ。 岸辺の高層ビルの明かりがきらきらと輝いている。 コース料理が運ばれてきてテーブルも賑やかになってきた。 なんと平和な時、なんと優雅な時が過ぎているのだろう。 行き交う豪華なクルーズ船は、舳先が龍や鳥の形をしたものや、 特に飾りはないが提灯が華やかなものなど4種類ほどを見ることができ、 どの船も相当混んでいることが、ベトナム観光の人気を物語っている。 クルーズが終わりに近付く頃、デッキに上がってみた。 デッキにも長いすは用意されているが、こちらは空いている。 風は一段と強く頬を過ぎり、少し高くなった分だけ景色も変わる。 夜景が一段とエキゾチックに感じるが、 船首に掲げられ、はためいているベトナム国旗を見ると 解放戦線の兵士のことが頭を過ぎり、複雑な心境になる。 優雅なクルーズもとうとう終わり、21時半に船は接岸した。 ホテルに戻りコンビニで買ったビールでまた乾杯となった。 寝る前にベッドの脇の固定電話で、家に連絡する。 相棒の携帯電話は国際規格になっているのでメールが使えるが 私の機種は古いので外国では使えない。 固定電話が私にとって唯一の通信手段だ。 2分くらいで6.6ドルは、以外に安いと思った。 明日は早いので10時半頃に床に着く。
12月10日の朝は、7時前に目が覚めた。 カーテンを開けると、眼下には昼間ほどではないが、すでにかなりのバイクが走り回っている。 上空には薄っすらと雲も掛かっているが太陽も負けじと頑張っている様子だ。 恐らく今日も暑くなりそうだ。 代金35ドルで4時間の市内観光のオプショナルツアーが これから始まるが、これが終わればベトナムとは実質的にお別れとなる。 ガイドとは12時にロビーで合流という約束になっている。 2日目ともなると、朝食のバイキングも どこに何があるのか凡そ分かってきたのでスムーズに行動できる。 昨日美味しかった麺(おそらくフォーだと思われる)を今日もいただいたが、味は昨日と多少異なっていた。 日本のラーメンと同じように、作る人によって様々な味の違いがあるのは仕方がない。 今日は集合時間が遅いので、ゆっくり食事ができる。 約束の時刻の10分前に、荷物を纏めてロビーのクロークに預け、待っているとウットさんがやってきた。 やはり肝心要の最初と最後の日は、日本語が一番上手な人が来てくれたのだ。 心憎いまでの演出である。 4時間どのように使うかは、我々の胸三寸だが、昨日打ち合わせていたように希望の行き先を伝え、 順序はベテランガイドのウットさんに任せることにした。
ちょうど昼食時だったので、最初に食事をすることになった。 美味しいフォーの店はないかと聞くと日本の銀座通りとも言われている ハイバーチュン通りの「フォー24」というフォーの専門店に案内してくれた。 通り自体の雰囲気は、東京の銀座とは掛け離れていて、地方の銀座通りに近いものだった。 メニューには10種類以上のフォーが載っていたが一般的なものとビールを注文した。 勿論ガイドさんが仲介してくれたので助かった。 さすがにフォー専門店だけあって、掛け値なしにうまかった。 これで、5万ドン、ビールが2万5千ドンとは満足である。 昨夜のホテルの屋上レストランでの食事はドルでの支払いだったが、 「5万ドン」と聞くと、相当な高級料理を食べたような気がして満足感に浸れるのである。 しかも、日本円に換算すると300円少々なのだから満足度が更に増すのも当然である。
次に向かったのは人民委員会庁舎で 門の前には偉大なるホーチミンの像が置かれている。 殆ど雲もない空からは太陽が容赦なく照り付けて正に日本の真夏の中にいるようだ。
その次はサイゴン大聖堂で、結婚記念写真の撮影スポットもなっているとガイドが説明してくれた。 すぐ脇にはパリの「オルセー美術館」を手本に建てられた中央郵便局(19世紀末に建てられたそうだ)の方に進むと、大聖堂の横で新婚さん2組にお目にかかった。 一組はシクロと呼ばれている2人乗りの三輪車のようなものに乗っていて、 どちらも最高に幸せそうな笑顔だった。 郵便局の中は、天井が高いせいか、外の暑さも忘れるほどだ。 絵葉書や小物などの販売もやっていたが、愛想は無く、公務員という人種は、 どの国でも事務的な人が多いようである。
そして今日のツアーで一番楽しみにしていた旧大統領官邸(現統一会堂)である。 ここは、確か、グエン・カオキ将軍の官邸だったと思うが、 当時の新聞には、将軍はヘリコプターで逃げて、ついに解放軍の旗が掲揚されたという、 感動的な記事を見た記憶がある。 入場料は3万ドン(約150円)だったと思うが 建物の前は、中央に小ぢんまりとした噴水がある円形の芝生の広場になっている。 右脇には官邸に突入した戦車が飾られている。 建物内部は将軍の執務室、作戦会議室、貴賓室は勿論のこと、将軍の寝室や家族の部屋、それに映写室までも完備されていた。 地下には無線室、放送局、秘密の作戦会議室などがあり、屋上の一角にはヘリコプターも展示されている、 正に旧南ベトナム軍の中枢機関であった様子が窺える。 屋上から市街地を見下ろした時、解放戦線の旗を揚げた時の兵士の気持ちを考えてみたが、 部外者にはとても想像することも出来ないほどの壮大で歓喜に満ちたものであったろう。
次は土産物屋に向かう。 車が4、5台置ける駐車場のある2階建てで、店内も思っていたより大きい。 相棒はかなり積極的に買い物を始めたが 私は荷物も増えるので、最低限に抑えようと思っていた。 女性店員は積極的に2階に案内してお茶を勧める。 このお茶はお茶の木で作ったものではなく、珍しい蓮のお茶ということで 試飲してみたが、特に癖のあることも無かったので買うことにした。 お茶を飲みながら、片言の日本語が話せる店員と話したが、 日本ではお茶ノ水に居たことがあるなどという話を聞くと、 つい親近感が湧いてきて、お皿、敷物、飾り物など予定外の物に散財してしまった。
最後に訪れたのは戦争証跡博物館で入場料は15000ドンだ。 日本では「証跡」という言葉すら殆ど耳にしたことはないが 勿論これはベトナム戦争の写真や資料を展示して 戦争の悲惨さを後世に残すことが目的の博物館だ。 ベトちゃんとドクちゃんでも有名になったが 枯葉剤の影響で体の側面が接合している胎児と思われるホルマリン漬けの双子は、正視するに忍びなかった。 写真にも涙が出そうになるほどの悲惨な場面、怒りが込み上げてくる残虐な場面など、戦争の恐ろしさをまざまざと描き出している。 他に拷問の行われた部屋や、実際に使われていたらしいギロチンなども展示されている。 外の広場の一角には、米軍の戦車や飛行機も数台並べられている。 ここで今日のツアーは最後なので、ガイドのウットさんも交えて記念写真を撮った後、 車でホテルまで送ってもらう。 この後、ホテルからホーチミンシティ国際空港まで送ってくれるのは 他のガイドということで、 ウットさんとは、ホテルで硬い握手をしてお別れだ。 少し待っていると、車が迎えにきた。 今回もガイドと運転手の二人だが、ガイドはウットさんの日本語と比較すると、 かなり聞き取りにくいが、観光案内をする訳ではないので、大した問題ではない。
空港には17時45分に到着した。 ガイドさんは、空港建物内には入れないので、チケット売り場が分かるまでドアの外で見ているから、 分かったら手を丸の形にして教えて下さいと話してくれた。 会社の指示だろうが、その親切には感動した。 成田国際空港のように広くはないので、売り場はすぐに分かり、 早速ガイドさんに合図して手を振って別れた。 航空券を貰って、荷物をデポして身は軽くなった。 税関検査の後、出国審査でちょっとしたトラブルが発生した。 殆どが男性だったが、一人女性の審査官がいたので、その人の列に並んだ。 特に可愛いとか美人だからということではなく多少は優しいかもしれないという程度の理由だった。 ただ、近付くと神経質そうな感じも見受けられ、いやな予感がしたので、他の列に並び直そうとも思ったが 空いていたので、すぐに私の番がやってきた。 バスポートだけを見せると、何か早口で短い言葉を発した。 私は聞き取れなくて、怪訝な顔をしたが、また同じ言葉を話した。 私はベトナム語のように聞こえてしまったので 「すみませんが、英語で話して下さい」と英語で言った。 すると、「英語で話しています!」とむっとした顔をされてしまった。 そして、ふて腐れた態度で何も言おうとしない。 これは「まずい」と思って大事な書類の束を出して順番に見せ始めた。 2番目に航空券を出したら、奪い取るようにしてチェックを始めた。 そして、黙って返してくれた。 私はほっとすると同時に、ふて腐れたその態度に腹が立った。 自分の言っていることを、外国の人に分かってもらおうという努力や心配りが全く感じられない。 公務員はどこの国でも同じなのかもしれないが、 帰国時の成田の審査官は笑顔の挨拶で迎えてくれて、私は日本の審査官を見直してしまった。 仮に日本人の審査官だったら、その態度を注意したかもしれないが、 最低限の英会話しかできない私は、黙って引き下がるしかなかった。 後で冷静に考えてみれば、航空券を提示することなどは当たり前のことだったかもしれないが、 航空券なら、単に航空券という以外に、 搭乗券とか飛行機の切符とかチケットとか、言い方は他にもあるだろうと思う。 私が聞き返した段階で、別の表現をするくらいの配慮があっても良いと感じた。 後で気が付いたことだが、そういえば、入国審査でも、パスポートの他に航空券の提示を求められた。 ただ、飛行機に乗る前に航空券のチェックはあるのだから、 何故、その審査の際に航空券まで提示しなければならない合理的な理由が今だに理解できない。
これからカンボジア行きの飛行機の出発まで2時間近く待たなければならない。 空港内を歩き回ってみる元気もなく、階下の待合室で所在無い様子で過ごす。 50席ほど設置されているが、半分ほどしか埋まっていないのは出発時刻が遅いせいかもしれない。 発車時刻が近付いてきて、我々が乗る飛行機の便名がアナウンスされた。 切符のチェックを受けて、バスの到着待合室で暫く待つ。 この便に乗る人はちょうどバス1台に納まった。 バスが飛行機に横付けすると、タラップを上り往路のJALより一回り小型の旅客機に乗り込んだ。
機内は中央が通路で両側に3列の席があり、私が右側の窓際で相棒はその左だ。 たった2時間のフライトなので、何も出ないと思っていたが、暫くするとミネラルウォーターとサンドイッチが配られた。 味は十分満足というところまでいかなかったが、嬉しかった。 しかし、その軽食が食べ終わらない内に、入国カード、税関申告書所とビザの申請書が配られた。 我々はビザの申請は済んでいるので、それ以外の書類を書けば良いのだが、初めてのことなので、まごついた、 相棒の隣に座った女性がたまたま日本人の添乗員だったので分からないところを聞いて、何とか着陸までに書き終えた。 もし、ビザの申請書まで書いていたら、慣れない私はとても着陸までに書き終わらなかったであろう。
シェムリアップ空港に到着してタラップを降りると 機内が涼しすぎたこともあるが、夜10時前だというのにむっとする暑さである。 バスの送迎はなく、係員が建物の方へ歩いていくように手で合図をしている。 1、2分で入国審査の建物に到着する。 カンボジアの入国審査は、私にとって多少の不安があった。 相棒は赤坂の大使館に直接出向いて、ビザを取得した。 私は、大使館での申請には申し込みと引き取りと、2回も出かけなければならないという彼の話を聞いて、 交通費と時間の浪費を計算して、ネットで申請していたのだ。 本当にネットでの申請が生きているのかどうか、一抹の不安があったのだ。 パスポートに航空券と恐る恐るネットでダウンロードしたビザを差し出しながら顔色を窺った。 ベトナム出国時の嫌な記憶も冷めやらないうちなので戦々恐々だった。 今回も偶然女性の審査官に当たってしまったが、今回の人は穏やかだった。 多少笑顔を返しながら、手でOKの合図をくれた。 カンボジアで最大の懸念材料がこれで消え去った。 あとは税関申告書を渡して、無事に入国することができた。 ガイドさんの迎えの車に乗って、4星ホテルのエンプレス・アンコール・ホテルに到着したのは、 夜の10時を少し過ぎていた。
外は真っ暗だが、ロータリーの前には、仏教国には不似合いな、 クリスマス用かもしれない青一色のツリーの光が密やかに煌いていた。 玄関の上には洒落た小さなシャンデリアが輝いている。 玄関に近付くとボーイがドアを開けてくれる。 中に入るとホテルとは思えない、今まで見たこともない仏教色に包まれていた。 フロントの手前には、まるで本堂の中にあるような太くて丸い柱が2本立っている。 色の濃淡はあるが、全体は褐色に統一されているので落ちついた雰囲気を漂わせている。 2本の柱の前の豪華なシャンデリアも仏教風の趣を備えている。 フロントの背面にはアンコールワットの彫刻が飾られていて、シャンデリアが天蓋だったら 正に本堂に入ったような錯覚に陥ってしまうだろう。 ただ、その下にはクリスマスツリーが飾られていて外国、特に欧米の観光客に対する配慮も覗かせている。 チェックインのためにフロントに近付くと2人の係員は両手を合わせて挨拶をしたので私もつられて手を合わせた。 ガイドが話をつけてくれると、鍵を渡された。 係員の一人が部屋まで先導してくれる。 エレベーターで3階まで上がり、廊下を2回曲がって、やっと部屋に辿り着く。 部屋数も多く、かなり大きなホテルだ。 ボーイは片言の日本語混じりの英語で、鍵はオートロックであることと、金庫の操作上の注意と 部屋の内部の簡単な説明をして、 何か困ったことがあったら日本人のスタッフが居るので声をかけて下さいと言って出て行った。 早速ビールを買いに1階の店に出掛ける際に、念のため、ルーム・カードが正常に使えるかどうか確認してみると、ドアが開かない。 ドアを叩いて相棒に鍵を開けてもらい、彼にも実際に確かめてもらったが、やはり開かない。 私はビールを買うついでに、フロントに寄ってクレームを申し入れた。 それから、店に行ってビールの値段を聞くと、若い女性店員が缶ビールは1本3ドルだと答えた。 私は耳を疑い、つい「えー!」と声をだして驚いた。 ベトナムの倍近い値段だ。 しかしそれは、今の我々にとって必需品なので買わざるを得ない。 恐らく相当に苦いビールであろう2本を手にして部屋に戻る。 部屋の冷蔵庫のビールが3ドルだったので、店のビールなら少しは安いかと期待したが、 微かな期待もビールの泡と一緒に消えてしまった。 間もなくドアをノックする音がして、ボーイが新しいカードを持ってきた。 鍵のトラブルが落着すると、こんどは新たなトラブルが金庫で発生した。 これは単に相棒が金庫の操作を間違ったことに依るもので 金庫自体の問題ではないが、説明書を見ても解決できないので私がフロントに出向く。 これも程なく係りの人がマスターキーを持ってきて解決した。 ビールを飲んで少し落ち着いたら、相棒がホテル案内を見ながら 携帯電話の充電器が用意されていると言い始めた。 私の携帯は外国では使えない機種なので、充電には全く関心がないが 彼はメールなどで使う関係で充電したかったのだろう。 早速充電器を借りてきて繋げてみたが、うまくいかない。 私もやってみたが駄目だった。 諦めかけたところに、彼が再度繋げてみると、 どういう訳だか、今度はうまく充電ランプが点いた。 彼はほっとしたようだった。 私は外国の電圧は200ボルトで、変圧器を買って持っていくにしては高過ぎるし、 ホテルで借りられることなど思ってもいなかったので、当然接続コードも持って行かなかったのだ。 帰国してから調べてみると、最近の機種は200ボルトの充電器にも対応しているようで、 私の携帯に対する知識不足が失敗の原因だった。 色々トラブルのあった夜が更けていった。
12月11日、カンボジア初日の朝は6時20分の起床だ。 ホテル出発予定が8時半だから仕方がない。 カーテンを開けると竹に似た植物が随所にあり、 一瞬京都にでもいるような気がしたが、 点在している褐色の屋根瓦が、ここが異国であることを物語っている。 相棒は布団の中でまだ惰眠を貪っている。 私はシャワーを浴びたり、髭を剃ったりして出掛ける準備を進めた。 7時に1階フロント脇のレストランへ行く。 入り口で若い女性が両手を合わせて挨拶をする。 やはり「仏教国だなー」という印象で、このような光景はベトナムではなかったことだ。 宿泊客の多くは早い出発のようで、全部で百近くある席はほぼ満席状態だ。 とりあえず、パン、サラダ、果物、ハム、ソーセージ、野菜炒めなどを取ってやっと探した空席に座った。 混んでいたので、相棒とは別のテーブルになった。 私が座った4人掛けのテーブルは、韓国人の女性達3人が去った後、 「ここ空いてますか?」と中年の日本女性が声をかけてきたので、すかさず、「空いてます」と答える。 どこから来たのか尋ねると大阪から一人で来たとのこと。 私など、とても一人で海外旅行などする気になどならないが、旅行のベテランなのであろう。 どこの国でも、現代女性パワーの凄さには頭が下がる。
8時半少し前にガイドがやって来た。 日本語は時々分かりにくい部分もあるが仕方がない。 途中2箇所のホテルに寄って、他の客を乗せていくので少し待ってくださいと話があった。 最初は女子大生らしき二人、2軒目で20代半ばの男性一人を乗せた。 まずは、アンコールトムに向かう。 アンコールワットの少し手前で検問所があり、 観光客は観光税を払い、写真を撮られ、その写真を貼った証明書を首から下げて観光しなければならないという。 我々の場合、観光税はすでにツアー代金に含まれているので、写真を撮るだけでOKとのことだ。
有名なアンコールワットは、そのあと近くの山に登って夕日を見る関係もあって、 午後の予定になっているので先にアンコールトムを観光する。 まず、アンコールトムの歴史について、簡単に説明しておこう。 1177年ころ、この地域はベトナムのチャンパ軍に制圧されており、 それを開放したのがクメールの覇者と呼ばれるジャヤバルマン7世である。 ここは、アンコールワット寺院の北に位置する城砦都市遺跡で、 12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により建設されたといわれている。 周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されている。 アンコールの意味は、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉で、 トムは、クメール語で「大きい」という意味らしい。 アンコールトムは、ラテライト(赤土)で作られた8mの高さの城壁と一辺3kmの環濠で囲まれている。 この点は、日本の城が外堀を形成しているのと似ている。 外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。 南大門入口には左右それぞれ54体の巨人の石像が並べらおり、 向かって左側の像は神々、右側の像は阿修羅でどちらも7つの頭を持つ蛇(ナーガ)の胴体を抱えている。 各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。 また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌(ヒンドゥー教における天地創造神話)を模したナーガになっている。 また門の両脇にはこのナーガを引っ張るアスラ(阿修羅)と神々の像がある。 我々が南大門に着いた時、観光客を乗せた象が門へ向かって歩いて行った。 門は見上げるばかり高さなのだが、幅は車がやっと通れるくらいなので、車が通過する時には観光客は待たざるを得ない。
アンコールトムの構造は、基本的には二重の回廊とその中心に位置する高さ43メートルの中央祠堂からなるが、 増改築が行なわれたために複雑な構造になっている。 今も日本の援助で改修工事が行われていて、日本人技師数人の姿も垣間見えた。 外側回廊の壁面に刻まれたレリーフは、すばらしい芸術作品である。 レリーフには、左にクメール人、右に中国人、後ろには金壷を持った胴元がいる庶民的な闘鶏の場面もある。 生活がかかっている博打でもあり、また娯楽でもあったようだ。 他にベトナムのチャンパ軍との戦いぶりは絵巻物のように描かれている。 ワニに食われる戦士、凱旋して帰る喜びの姿、お産の光景など当時の戦争や生活の様子も克明に描かれていて興味深い。
狭い石の階段や鉄の梯子などを上り、 アンコールトムの中央にあるバイヨン (Bayon) に辿り着く。 従来のヒンドゥー的な思想を踏襲しつつも、中央のバイヨン寺院が仏教寺院ということは、 日本の神仏混淆と似たところがあり、親近感が沸く。 中央祠堂をはじめ、塔の4面に彫られているのは人面像(バイヨンの四面像)である。 その内の一つは斜め下から写真を撮ると、鼻と鼻がくっついた様に写るとうことで、 ガイドさんが一人一人を写真に撮ってくれた。
中心に位置するバイヨンを降りて少し歩くと バブーオンやビミアナカスと称する石造建築物がある。 時間の関係で、外から眺めただけだが、これほど近くにこのように大きな建築物があるとは、 圧倒されて言葉も出ない。 少し進むと、溜め池が2箇所見えてきた。 ガイドの説明によれば、王宮に勤める人のための男女別の沐浴場らしい。 広さは小学校のプールの倍くらいで、お世辞にも綺麗とは言えないが、昔は澄んでいたのかもしれない。 次はライ王のテラスや壁全面に像の彫刻がある象のテラスを案内された。 ここでも手の込んだ彫刻が見られる。 戦時体制下なら、このような傑作は生まれないはずなので、当時の悠久の平和がもたらした賜物なのであろう。
次は車で10分ほど走り、タ・プロームに到着する。 12世紀にジャヤヴァルマン七世が母の菩提を弔うために建てたという。 12000人以上が暮らしていたといわれる一つの都市のような仏教寺院遺跡だそうだ。 この地域の寺院群は、1431年にタイ軍の攻撃を受けた後放棄され、 その後、1860年にフランス人博物学者によって密林に埋没した遺跡群が再発見されるまで、 約400年以上に渡ってその存在さえも忘れられていた。 カンボジア人は、日本人以上にお人好しのように感じる。 私はその映画は見ていないが、ここはアンジェリーナ・ジョリー主演の映画 トゥームレイダーの撮影に使われたらしい。 東西1000メートル南北600メートルという、ラテライトと呼ばれる 紅色の土壌の周壁に囲まれた広大な敷地内には、 日本では今までこれほど大きな木は見たこともないガジュマルによる遺跡への浸食が激しい。 ネットで写真を見てもある程度その大きさは想像できるかもしれないが 実際に身近で見るガジュマルは、獲物を捕らえて放さない巨大なオクトパスのようでもあり、多少なりとも恐怖心を禁じえない。 特に大きなガジュマルの根元では、記念写真を撮ろうと列を成していて、5分位は待たされる混雑ぶりである。
途中でお昼を済ませてから、13時にホテルに戻り、後半はアンコールワットに向かう。 迎えのガイドが来るのは14時半なので、暫く部屋で休憩する。 朝と同じように2箇所のホテルで追加の客を乗せて、アンコールワットに到着したのは15時だった。 この名前を邦訳すると「寺院によってつくられた都市」ということになる。 アンコール・ワットは、ヒンドゥー教の宇宙観を地上に再現されたものと言われている。 アンコール遺跡群の寺院の中で、正面が西を向いているのはアンコ−ル・ワットだけで、他は、すべて東を向いて建っている。 「死」を意味する西向きに建てられていることから、国王墳墓ともいわれている。 観光客は、周囲を囲っている幅約190mの環濠を渡って、正面玄関でもある西塔門から入る。 日本では環濠があるのは、天皇などのお墓の一部にもあるが主にはお城が多い。 非常に大事なものは、洋の東西を問わず外からの進入を困難にするような構造になってしまうのが定めのようだ。 入り口にはポル・ポト派かと思われる銃弾の跡も多少見られ、この程度でよかったと安堵の胸を撫で下ろす。 門から中に入ると、外の暑さから少しは開放される。 中には仏像が安置されていたり、勿論立派な彫刻も描かれている。 西塔門を抜けると、有名なアンコール・ワットが見えてくる。 ただ、一番高い中央の第三回廊が工事中のようで、ブルーシートに覆われていたのがなんとも残念なことだった。 西塔門からアンコール・ワットまでは幅7〜8メートルの石畳の道で繋がっている。 途中左側の径蔵と称する建物には日本の援助で修理が進められている旨の掲示板があり、 「日本もやるじゃん」と女子学生らしき二人の呟きが聞こえた。 その先にあるアンコール・ワットが、手前の蓮の花が咲いている池にシンメトリックに映えて、とても美しい。 恐らくここが、アンコール・ワットで一番の撮影ポイントであろう。 少し歩いて、いよいよ中心の建物の中に入る。 ここは、神々のすむ場所といわれ、世界の中心と考えられている中央祠堂が 外側の第一回廊から始まり3つの回廊で囲まれていて、中央祠堂へ入るには、西からの道しかない。 ただ、案内図を見ると幅が一番広い第三回廊は、工事中で閉鎖のため、見ることができるのは第一と第二回廊だけになる。 ガイドは、英雄の像だ、軍隊の行進で猿は孫悟空だ、天国と地獄だ、神様だと、 次々に壁に描かれているレリーフを説明するが、 あまりにも混んでいて観光客の頭が邪魔をして一部しか見えないような状態だし、 ガイドの日本語にも時々理解できない部分もあって、ただ、本当にすごい彫刻だと感心するしかなかった。 レリーフや女神像は一つとして同じものはなくこれだけ広い壁に絵を書くとしても大変なことだと思うが、ましてや彫刻である。 日光の東照宮を飾る彫刻も立派だが、スケールが違う。 アンコール・ワットの彫刻は東京ドームの外壁を 2周から3周するのではないかと思われるほどの規模なのだ。 その技術と根性には感心を通り越して、唖然とするばかりである。 正に、クメール芸術の集大成といわれ、その規模、石造技術とも世界屈指のものと言われる所以である。 一度外に出て東側に回ると、1時間の自由時間となった。 目の前の急な階段を登っていくと、中央祠堂の上に出られるとのことだが、階段入り口に行くまでに長蛇の列で、 とても1時間では下まで戻れそうもないので相棒と近くをぶらつく。 流石に世界最大級の寺院だけあって、歩き疲れてしまったので自由時間の後半は石の上に座って二人でぼんやり過ごした。
自由時間が終わると今度は東の門から出て行く。 振り返って見るアンコールワットは、当然荘厳さはあるのだが、 美しさという点では、西からの光景には到底及ばない。 車まで戻る道中、森の木を見れば、タ・プロームのあのガジュマルを凌ぐような大木もあり、 温暖な気候が木の生長に大きく影響しているのだろう。 そして、蝉の声が聞こえてきた。 近付くにつれて、その声の大きさに度肝を抜かれるばかりである。 5分もその木の下にいたら、発狂するのではないかと思ってしまうくらいの騒音なのだ。 蝉の姿は見えなかったが、20センチくらいはあるのではないかと疑ってしまう。
30分ほど車に乗って、プノン・バケン遺跡の麓に到着したのは16時50分だった。 この山を登ってカンボジアの夕日を見るのである。 10歳くらいの子供が数人、ペットボトルの水を売りにくるが、必要ないので可愛そうだが無視する。 看板によると、象に乗って登る方法も掲示されているが、ガイドの話では、徒歩で15分くらいということなので歩くことにする。 英語、中国語、ハングルなどの言葉が飛び交う、正に国際的観光地である。 途中、崩れかけている石の階段があったが、かなり急で危険なためロープが張られて、 立ち入り禁止になっているので、迂回路を進む。 頂上に着くと、ちょうど象に乗ったてやってきた観光客が踏み台から降りてきた。 目の前には六層基壇のピラミッド構造の上に中央祠堂と4基の副祠堂を持つプノン・バケンが建っていた。 中央付近にあるかなり急な階段を観光客が上ったり下りたりしているのが見えるが、 下りてきた日本人が「怖かったー」と言っている声が聞こえたので相当急なのであろう。 幅が2メートルもない狭い階段のせいか、また、混んでいるせいか、我々は少し待たされてからガイドのOKがでた。 階段が近付くにつれて、「怖かったー」の意味が分かってきた。 石段の奥行きが10センチほどなので、しっかりと踏み込まないと滑り落ちる恐れがあるのだ。 岩登りの基本である三点確保で慎重に上る。 屋上はテニスコートほどの広さで中央には2メートル四方ほどの祠堂がある。 ガイドは階段近くを示し、「ここに5時45分までに必ず集合してください」と言って自由行動となった。 太陽が沈むには、まだ20分近くもあるので、ゆっくりと周りを歩く。 東には、アンコールワットの塔が薄靄の中に窺える。 西には農地も垣間見えるが殆ど鬱蒼とした森林に囲まれていてジャングルの真っ只中に居る感がある。 時間が経つにつれて、人々が西側に集まり始めた。 前の方はすでに立錐の余地もないので、後ろの方の少し高くなった石の上に立って夕日撮影のチャンスを待つ。 そして遂に太陽が地平線に近付く。 ただ、残念だったのは、アンコールワットの塔に掛かる夕日を想像していたのに 位置関係を理解していなかった私は、屋上に上って初めて アンコールワットと太陽は逆の位置にあることを知ったのである。 更に残念なことは、靄もかかり、期待していた美しい夕焼けではなかったということだ。 夕焼けとは太陽と雲の両者が織り成す芸術だと思うが、何と言っても、天気が良すぎて雲が少ないことが致命的だった。 次回は朝日に輝くアンコールワットの写真が撮れれば、などと夢想するのだった。
落胆した後待っているのは、あの怖い下り階段である。 階段に限らず、山やスキー場の下り坂など、坂というものは上りより、下りに恐怖心を感じるものだ。 屋上から階段を見下ろすと、背筋がむず痒くなるが、下りなくてはならない。 手に力を入れてしっかりと石にしがみ付き、慎重に一歩一歩下りる。 神仏に対する畏敬の念を感じさせるために、意識的にこのような構造にしているのかもしれない。
さて、次はお楽しみの夕食である。 途中土産物店に連れていかれ、スカーフだけ買う破目になったが 18時45分アマゾン・アンコール・レストランに到着した。 右の方には舞台があり、すぐ前には20人ほど座れる長テーブルが8脚ほどある。 その後ろが通路になっていて、左側には舞台前の倍ほどの長テーブルが用意されている。 我々5人グループは左側のテーブルの舞台に一番近い席に案内された。 対面には若い男性、その右に女子学生の二人が座る。 ボーイさんが飲み物の注文を取りに来たので、躊躇なくアンコールビールを注文する。 料理はバイキングで、フォーやラーメンのような麺類、揚げ物、煮物、果物の他に焼き鳥や焼きそばまであるのには驚いた。 ビールが運ばれて来て間もなく、ショーが始まった。 片足を上げ、指の第二間接を反らして優雅な曲線を見せて踊る有名なアプサラダンスショーは、 真打なので後になるようだ。 最初は音楽の演奏や日本のどじょうすくいに似たコミカルな踊りが 披露されている。 前の席の若者達に素敵な夕焼けの写真が撮れたか聞くと、 十分とは言えないが、それなりの満足感があったようだ。 私が、アンコールワットに夕日が沈む写真が撮れるのかと思っていたが、 位置関係が逆でがっかりしたと言うと、女子学生も頷いてくれた。 我々は明日トンレサップ湖を見てから、帰国すると言うと、女性二人は、あと二日間寺院を観光していくという。 私などは、今日一日幾つかの寺院を見ただけで十分という感があるが随分熱心な人達である。 やがて、お待ちかねのアプサラダンスが始まった。 この踊りは、ポル・ポト政権時代に当時の踊子の90%が処刑され、 生き残った人達が懸命にこの踊りの復興に携わったという悲しい事実がある。 しなやかな手足の動き、特に指を弓なりに反らすところなどが特に妖艶である。 全ての踊りが終了すると、観客が順番に舞台に上がって踊り子達と記念撮影だ。 ちょっと恥ずかしかったが我々も上がって、ガイドさんに写真を撮ってもらった。 素敵な余韻を胸に秘めながら、ホテルに戻ったのは21時半だった。
今日12月12日は今回の旅の最終日だ。 13時半にホテルで落ち合って、トンレサップ湖クルーズとオールドマーケットへ行く予定だ。 オプショナルツアー代金は40ドルで昨日の内に支払っている。 7時15分に目が覚めたが、出発は午後なのでのんびりできる。 8時近くに朝食に向かう。 この時間になると、多くの人達はすでに出掛けているようで、 レストランは昨日とは打って変わって閑古鳥が鳴いている。 でも、我々にとっては、ゆっくりとした食事ができ至極の時が過ぎていく。 昨日は混んでいたので食べなかったが、フォーに似た麺を食べることができた。 ベトナムの専門店に比べると、多少味が薄い気がした。 時間はたっぷりあるので、部屋に戻って、また惰眠を貪る。 10時過ぎに起きるが、いつまでも部屋の中に居る訳にもいかないので 観光に必要な手荷物だけを纏めて、他は1階のクロークに預ける。 ガイドが来るまでの2時間余りあるのでロビーで新聞や雑誌を見ていたりしたがそれでも時間が有り余っている。 フロントの横にあるドアを開けて、すぐ左にはトイレがあるのだが、 今まで、それより奥へは行くこともなかったが、時間があるので足を延ばしてみた。 すると広い中庭があり、脇にはプールまであるではないか。 もっと早く分かっていれば、海水パンツを買ってでも泳いでみたかった。 勿論日本でその情報が分かっていれば、当然パンツを持って来ていた。 一泳ぎした後にビールでも飲みながらプールの端で日光浴ができれば最高だったのに残念至極である。
集合時間が近付いてきたのでロビーに戻って待つ。 約束の5分前に昨日と違うガイドがやってきた。 今日も一人追加で乗せる人がいるということで、ホテルへ迎えに行く。 可愛い女性を期待したが、不機嫌そうな顔をした30前後の男性でがっかりする。 3人を乗せた車は一路、トンレサップ湖に向かう。 次第に家が少なくなり田園風景が広がりを見せ始めると、家の造りが違ってきた。 それは家というには余りにも粗末なのである。 道の右側は、少しはましな住宅なのだが、特に左側の、川の流れに沿って点在している家が見るに耐えない状態で並んでいるのだ。 片手で押せば倒れそうなほどに細い4本の支柱、 やっと雨が防げそうな薄っぺらな屋根、 壁は隙間だらけの状態で単に板が張ってあるだけなので中の様子が良く見えるが、家具といえる物は見えない。 プライバシーも何もあったものではない。 サイクロンでも来たら、いや、私が人差し指で押しただけでも崩壊してしまうのではないだろうか。 柱と屋根だけみれば、日本の豚小屋の方がよほどましではないだろうか。 温暖だから、ただ雨が凌げれば良いのかもしれないが、余りの酷い造りに胸が締め付けられる思いだ。 川のあちこちには、ごみも散乱していて、遠めに見ても匂ってくるようで気分が悪くなるほどだ。 正に政治の貧困の写し絵であろう。 ガイドさんが、湖で船に乗っているときには、物乞いにあっても無視したほうが良いともアドバイスしてくれた。 その時は、どのようなことになるのか想像もできなかった。 「貧困」「生きる」「政治」などという言葉が走馬灯のように頭を駆け巡った。
浮かない気分で湖に到着した。 トンレサップ湖は、東南アジア最大の湖であり、 クメール語で巨大な淡水湖 (sap) と川 (tonle) という意味がある。 一年のうちのほとんどの期間、水深は1メートルほどで、面積は2700平方kmしかない。 しかし、夏季のモンスーンの時期には、周囲の土地と森を水浸しにしながら 面積は1万6000平方kmまで拡大して深度も9mに達する。 乾季は琵琶湖の3倍だが、雨季は10倍にも膨れ上がる。 また、湖からプノンペン付近でメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流する。 そのことが、メコン川下流の洪水を防ぐ安全弁にもなっている。 漁獲量は淡水魚としては世界有数の規模を誇り「恵み」をもたらしている。 淡水魚には有機物が豊富に供給され、また多量のプランクトンが発生する。 このように一時的な水域で繁殖するものが多いため、魚が大量に発生する。 雨季の終わりには水が引き、繁殖を終えた魚は川下に移っていく。 トンレサップ水系で採れる魚は、カンボジア人のたんぱく質摂取量の60%を占める。 水が引くにつれ周囲に養分に富む堆積物を残すため、雨季以外には重要な農地が拓け、浮き稲などが栽培されている。
湖に到着すると、我々を乗せてきた車は、 我々をピックアップするクルーズの終点に向かうために、すぐに走り去った。 ガイドが切符の手配などをしていると、同乗の30前後の男性が、携帯を車に置き忘れたと騒ぎ始めた。 ガイドは携帯でドライバーに連絡するが、車の中には見当たらないとの返事があったようだが、男性は引き下がらない。 自分でよく探すから車を呼び戻せとガイドに頼んでいる。 車が戻ってくると駆け寄り、探し始める。 すぐに見つかったようで、ほっとしたようにこちらに歩いてくる。 人のいい相棒は「良かったですね」と声をかける。 少し遅れたが、8人ほど乗れる小船に乗り込む。
船出の際に、とも綱を外している子供がそのまま船に乗り込んできたので驚いた。 年を聞くと10歳とのことだが、背が小さいのでもっと子供かと思っていたが、 いずれにせよ、日本なら小学校に通っている年齢だが、ここでも貧困が浮き彫りになっている。 ただ、少年の屈託のない笑顔がせめてもの救いであった。 乗っているのは、船頭、その少年、ガイドと我々3人である。 水は茶褐色で透明度もほとんど無く、お世辞にも綺麗とは言えない。 少し走っていると後ろから、10歳くらいの女の子が缶ビールを売りにやってきた。 一瞬後ろの方に隠れていたのかと思って後ろを振り向くと もう一台の船が同じ速度で並走していて、父親とおぼしき男性が船を操っていた。 少女はその小船から乗り移ってきたのだ。 ビールは2ドルだと言う。決して安くはない。 一番後ろに座っていた私が躊躇していると、彼女は前の方に進んでいった。 一番前の無愛想な男性は声を掛けられても、顔も向けず完全無視の態度である。 私はちょっと可愛そうになってしまい、相棒に声を掛けて買うことにした。 また自分の船に戻っていった彼女を目で追うと、父親も手を振りながら笑顔で答えてくれた。 暫く走ると川辺に浮かぶ小船の数が多くなってきた。 彼らは「ボートピープル」と呼ばれるベトナムの難民で、一年中船で生活しているそうだ。 小学校まで船の上に作られていた。 子供達はあまり綺麗とは思えない水に飛び込んだりして元気に遊んでいる。 櫓を器用に操ってタライに乗って遊んでいる子もいる。 網に掛かった小魚を集めている姿もよく見かける。 中にはテレビアンテナを立てている船も見かける。 ガイドに聞くと、電源はバッテリーだという。 ここに来る途中の川辺のバラック生活より幸せな生活なのかもしれない。 カンボジア国内は何度かベトナム軍に侵略されている。 それでも彼らは、ベトナム人が難民として流入してきても、悠然と受け入れている。 正に仏教国、仏の教えに順じた心優しき人々なのだ。
20分ほど進むと、急に視界が広がり海のように見えるところに到達する。 ガイドが湖の広さなどの説明が始まるか始まらない内に「ギブ・ミー・ワンダラー」の悲しそうな声が聞こえた。 ふと顔を向けると、声の主は顔を見る限り、50歳前後の女性だった。 栄養が足りないのか、元々小柄なのかもしれないが、体は小学生のように小さかった。 ガイドが説明をしている間中、その小船からは絶え間ない同じ言葉の繰り返しが続いている。 私は、ガイドから無視するように言われていたこともあるので可愛そうだが、顔を合わせないようにしていた。 30前後の同乗男性は相変わらず完全無視の姿勢を崩すことは無かった。 船が戻り始めても、暫く追ってきた。 戻ってすぐガイドは、「休憩しましょう」と左側の2階建ての建物に船を留める。 少年がてきぱきとロープを手繰り寄せる。 狭い階段を上ると、風が心地よい。 下では土産物の販売やワニや魚が飼育されている。 少し休んで、出発地点より多少手前の船着場に到着した。 カンボジアで貧しい生活を余儀なくされている人達の姿に心が萎えた部分もあるが、 船で果敢に働く少年の姿と笑顔が私を癒してくれた。 下船した後、無愛想な男性は、トンレサップ湖だけの観光なので宿泊先のホテルで途中下車し、 我々は、オールドマーケットまで乗せていってもらう。
車はオールドマーケットの端にある大きな木の横で止まった。 オールドマーケットと言うからには、ニューマーケットもあるのか ガイドに聞くと、実際にあるそうで、食料品を中心としたマーケットらしい。 ガイドが外国人もよく行くお勧めの食堂を一軒教えてくれたので、そちらに向かう。 我々としては、値段のことも勿論あるが、衛生面での安全も大切だと思っているので 食堂ならどんな店でも良いという訳にはいかない。 途中には、土産物店や置物、雑貨、衣料品店などが多く、食堂はあまり見かけない。 探していた店は、三つ目の角にあった。 数人の白人が店の脇のテラスでビールを飲みながら談笑している。 店の中は5脚ほどのテーブルしかない狭い店だったが、数人の日本人らしき婦人達もいたので安心して食事ができそうだ。 私はチーズバーガー(5.75ドル)にマンゴージュース(1.5ドル)を注文した。 相棒はビザとジュースだ。 一つのテーブルを隔てて座っていた女性達の話し声が聞こえてきたが、やはり日本人だった。 日本国内でもそうだが、女性のグループ旅行は海外でも健在である。 間もなく食事が運ばれてきた。 あまり期待はしていなかったが、予想以上に美味しかったので嬉しくなった。 特にマンゴージュースは絶品だったが、トイレのことを考えると追加注文はセーブせざるを得ない。 少し休んでから、マーケットをぶらつく。 ベトナムほどの活気や迫力は無いが、これも人のいいカンボジア人の国民性なのかもしれない。 集合地点に戻る途中の雑貨店で、気になった帽子を見かけた。 南国の日差しを避けるために、勿論帽子は持って来たのだが薄いベージュの色が気に入って、つい衝動買いしてしまった。 ホテルに戻ったのは、16時45分だった。 19時25分に空港まで送ってもらうため、ガイドさんが迎えに来てくれる手筈になっているが、それまでの3時間近く時間を潰すのが大変だった。 近くの歴史博物館でも見学しようかと相棒に持ちかけたが、余り乗り気では無さそうなので、結局ホテルの中でぶらぶらして過ごした。 仕事を与えられない窓際族の如く、椅子に座って苦痛の時間を過ごさなければならなかった。 約束の時間が近付いてきた時気が付いたのだが、テーブルの上に置いてあった小さな木製の器に「NO SMOKING PLEASE」と彫られていた。 私なら書くとか印刷したものを貼るだけで、十分だと思うが、あのような膨大な量の遺跡の彫刻を為し遂げた民族だけあって このような小さな彫刻は、朝飯前なのであろうか。 約束の少し前にガイドさんがやってきたのでチックアウトをする。 10日の日に家に1分22秒電話をした時の清算をしたが、7ドルと聞いてびっくりした。 ベトナムの倍近い金額かもしれない。 私が驚いていると、ちょうど近くにいた日本人が「この国の電話は高いですよ」と同情してくれた。 「電話だけではないですよ!」と言いたいところだったが、どうにか口を噤んだ。
シェムリアップ空港に到着したのは20時ちょうどだった。 ガイドから出国の際には25ドル用意しておいたほうが良いとのアドバイスを受けた。 そのことは知ってはいたが、入国時に20ドルも取っておいて、 帰国時もか!という憤慨にも似た感情を抑えることはできなかった。 出国審査などは無事終わったが、離陸まで1時間近く待たなければならない。 多少腹も減ったので、空港内の待合室の横にあるスナックバーで パンとオレンジジュースを頼んだ。 パンは2.5ドルと書いてあったので分かっていたが、ジュースは当然パンより安いと思っていたので 値段表を良く見ていなかったこともあるが、合計6ドルと聞いて、ジュースが何故そんなに高いのか驚いた。 本当にこの国の人はいいのだが、あちこちで税金を取られるのには閉口した。 ちなみに消費税は10%である。 この国に、私が今までに見たこともないような貧困の生活があるのはポル・ポト時代の悲劇が大きく影響しているのかもしれないが、 現代の未熟な政治や、生活に追われて政治を考える余裕のない国民の、二重の負のスパイラルから開放されて より豊かな生活ができるようにするためには、多少の税や物価高は仕方の無いことかもしれない。 21時05分、離陸した飛行機はホーチミンシティ国際空港には21時45分到着。 出発は23時45分だから、ちょうど2時間待たなければならない。 トランジットなのだが、間違って出国窓口に行ってしまったトラブルもあったが 無事成田行きの飛行機に乗ることができた。 座席はまたも窓際だった。 単に幸運だっただけなのか、旅行会社の力なのか分からないが、飛行機は全て窓際に座ることができた訳だ。 眼下に見えるホーチミン市の灯りの煌きが次第に小さくなっていく。 たった二日間だけだったが、日本で言えば70年代のような活気のあるベトナムから元気をもらった感がある。 飛行機は苦手だが、この光景はもう一度見たいものだ。 機内食は、スクランブルエッグ、ほうれん草の油炒め、ポテトフライ、ウインナーソーセージ、野菜、果物、パン、ヨーグルトで 特注の日本酒もいただいて満足だった。
成田国際空港に到着したのは12月13日7時。 飛行機から出ると、真夏から真冬に一っ飛びに季節が変わり、冬の苦手な私は無性にまたベトナムに行きたくなってしまった。 8時21分、成田国際空港駅から、初めての京成スカイライナーに乗り、自宅に到着したのは昼前だった。 ベトナムのタイソン島は、私にとっては正にこの世の楽園であったが、 そこに住む人達は自分達が楽園にいることをあまり意識していなかもしれない。 しかし、多少なりとも「住めば都」ということを意識しなければ、生きていけないのも、また人間なのかもしれない。
追伸:今回は、好天に恵まれ楽しい旅が出来、無事帰ってくることができました。 私一人だったなら、どんなトラブルに巻き込まれていたかもしれません。 これは大木君のお陰であり、ここに厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。